- さまよえる凶刃――幻影の覇者ゾロアーク――
混雑する前にと思って小学生の夏休み期間に入る前に行ったので
今(2010年8月)からひと月近く前になりますが、
「劇場版ポケットモンスター
幻影の覇者ゾロアーク」を観ました。
「こんなもの観てうれしいのかね、子供は」と言ったら
反発を受ける事は必至なのでぼかした表現にすると
「正義とは一体なんなのかと考えさせられる内容」といった所でしょうか。
本当は「全員がみじめになった、救いのない物語」だったと感じました。
「子供向けの映画を大人がどうこうと…」と言われるに違いない。
確かに正直なところ、劇場のみで限定配布される「セレビィ」や
前売り券特典の「色違い三貴」欲しさが、足を運んだ一番の理由です。
――大人が行く目的なんて子供の付き添いか幻のポケモンしかないだろう――
そういう意見があったらごもっともですとお返しします。が、しかし。
昔…(たぶん「ルギア爆誕」だったのではないかと記憶しています)、
テレビで放送されている映画を途中(そろそろ終盤という辺り)から観ただけで
何だか感極まってしまって涙をボロボロこぼしてしまった私は
その時、ポケモンって映画も頑張っているんだな…と思っていました。
ですので劇場版ポケットモンスターシリーズ自体を下らない物だと
最初から決めてかかっていたつもりはありません。
しかし、前作(?)「ギラティナと氷空(そら)の花束
シェイミ」が
テレビで放映されているのを観た時―『ゾロアーク』のタイトルすら知らない頃―、
ポケモン映画への期待は崩れ去りました。
『シェイミ』が何も心に残さない内容だったからです。
シェイミがグラシデアの花畑を探していて、
サトシたちの協力を得てそれを発見、スカイフォルムに変貌した。おしまい。
あとは哀れなギラティナが狂ったように戦っていた、それくらいしか…。
後の文章を解って頂く為に『ゾロアーク』のあらすじを書いておきます。
ネタバレだとお断りはしておきますが、大人が読む限り予想がつく話ですので、
完全まっさらの状態で観たい方でない限りさして問題はないでしょう…。
さまざまな力を持ったポケモンと人間が支え合いながら仲良く暮らす世界。
人間はポケモンをペットとして飼ったり、肉体労働を手伝ってもらったりと、
共に生きる仲間、友達として信頼し合って生きている。
そんなポケモン世界で誰もが楽しんでいるのが「ポケモンバトル」。
ただポケモン同士をけしかけてケンカさせるのではなく、
人間とポケモンの信頼関係を試すフェアなスポーツとして、
そして人間と人間、ポケモンとポケモン、人間とポケモンそれぞれの
コミュニケーションの手段として盛んに行われている。
物語の主人公である「サトシ」少年も、もちろんポケモンが大好き。
ポケモンバトルのトレーナーとして世界一の称号である
「ポケモンマスター」になる事を目指し、生まれ育った街を出て
ポケモンや各地で出会った仲間たちと一緒に旅を続けている。
トレーナーを監督、ポケモンを選手として行う競技もこの世界にはたくさんある。
その中のひとつ「ポケモンバッカー」は、3体のポケモンでチームを組み
グラウンドの空中に浮かぶゴールにシュートを打ち込むという、
サッカーとバスケットボールを組み合わせて立体的にしたような球技だ。
このポケモンバッカーのテレビ中継を観たサトシたちは
数日後に行われるバッカー世界大会を現地で観戦するため、
その開催地である「クラウンシティ」へ針路をとる事にした。
その道中で一行は、見た事のない珍しいポケモンが
野生のポケモンに囲まれている所を助ける。
本来、動物であるポケモンは、人間と言葉で話すことは出来ない。
だがきつねのような姿のそのポケモンは、人間の言葉を聞いて理解し、
しかもテレパシーでサトシたちに「ゾロア」と名乗ってのけた。
いたずら好きでひねくれ者らしいゾロアは、イリュージョンという力で
サトシやピカチュウの姿に化けておちょくってくる。
先ほどの一件も、ゾロアが野生のポケモンを化かして怒らせた事が発端だった。
「悪いヤツの所から逃げてきた」というゾロアは、
「“マァ”を捜してクラウンシティへ向かう途中だった」と言う。
“マァ”とは、ゾロアが逃げて別れ別れになった仲間の事らしい。
協力を申し出、ゾロアと共にクラウンシティに辿り着いたサトシたち。
だが、緑あふれる美しい街は大混乱の中にあった。
伝説の存在とされる「エンテイ」「スイクン」「ライコウ」という
3体のポケモンが、炎を燃やし、洪水を起こし、雷を落とすという
人智を超えた力で街を破壊して回っているというのだ。
この大事件で市街もスタジアムも封鎖されてしまい、
身動きが取れず一行の“マァ”探しは手詰まりの状態に。
サトシやクラウンシティの住民、バッカー観戦に訪れたファンが困惑する中、
シティの至る所に設置されているパブリックモニターには
伝説の3体が美しい街並みを蹂躙する様子が映し出される。
次いで、世界に名を轟かす大企業「コーダイ・ネットワーク」社長、
「グリングス・コーダイ」からの謝罪映像が流れ始めた。
彼はエンテイ・スイクン・ライコウよる破壊活動について、
自分が連れて来たバッカー選手である伝説の3体が
悪のポケモン「ゾロアーク」に操られて行っているものだと説明。
自分が責任を持ってゾロアークを捕獲するので
それまでは安全の為にそのまま待っていて欲しいと告げる。
しかしそれは、コーダイの狂言であった。
そのゾロアークもまた、コーダイの手の内にあったのだ。
常に時代の先を行く大胆な戦略でのし上がった天才事業家、コーダイ。
彼の私設研究所に囚われているゾロアークは、ゾロアの身柄を盾に、
自身の持つイリュージョン能力を解明するための被験体にされていた。
何とかゾロアを逃がしてからもその身を案じる弱みに付け込み、
伝説の3体に化けて街で大暴れするようゾロアークに命じたコーダイは、
一方でその様子を街じゅうに放った無数の飛行カメラで録画していた。
そして、録画した映像をコンピュータで加工し、
イリュージョンに過ぎない攻撃のため実は無傷だった街のオブジェまで
ゾロアークがメチャクチャに壊して通って行ったかのように合成、
より凶悪に仕立て上げた映像をモニターで放送したのだ。
足止めをくっていたサトシたちだったが、
地元出身でコーダイの成功の裏を探る記者「クルト」と出会う。
彼の土地勘に頼り、地下水路を通って封鎖地区を脱出すると、
その先の旧市街に住むクルトの祖父母がシティの過去を語ってくれた。
20年前、クラウンシティの植物が全て枯れ果てる事件が起きたこと。
昔は、この街のシンボルとなっている「セレビィ」という
幻のポケモンが時折現れては街の植物に元気を与えていたこと。
事件の頃からセレビィの姿がぱったりと見られなくなったこと。
そして、皆の20年間の努力によって緑を取り戻したこの街で、
つい先日、自分たちがついにセレビィの姿を目にしたこと…
狂言を使ってまで住民やバッカーファンを締め出して
クラウンシティを無人にしたコーダイの狙いは、
20年に一度しか起こらない「時の波紋」という現象を
誰にも邪魔されずに探す事にあった。
それを手に入れた者は、未来を見る能力が得られる…
コーダイが打ち立ててきた成功や偉業の数々は全て、
20年前に彼が掴んだ、時の波紋の力が見せる未来に従う事で勝ち得たもの。
富も栄誉も権力も、何もかも偽りの才能の賜物だったのだ。
しかしその力も次第に弱まり、今や断片すら見えにくくなってきている。
未来を見通すことが出来なくなる事に危機を感じた彼は
残っている力を振り絞って時の波紋の現れる日を予知し、
大いなる能力を再び手にするチャンスを狙っていたのだ。
しかし、時の波紋は本来、人間に過ぎた力を与える為のものではない。
時の流れの中を自由に旅する緑の守り神セレビィに
「ときわたり(時渡り)」の力を補充する事こそが時の波紋の役目だった。
それを奪われてしまえばセレビィは使った力を取り戻すことが出来ず、
クラウンシティに立ち寄って植物に元気を与える事も
次の「ときわたり」をする事も出来なくなってしまう。
そう、まんまとコーダイが力を手に入れた結果、全ての植物が枯れ果て
原因を知らぬ住民が悲しみに打ちひしがれた、20年前のように…
隠された真相を知り、悲劇の再来を防ぐ為コーダイを追う一行。
ゾロアークを悪と思い込まされ恨む街のポケモンの誤解からゾロアを守り、
コーダイの卑劣な罠に囚われるもそれを突破したサトシたちは、
人間への猜疑心に凝り固まったゾロアークとも和解を果たし、
ゾロアーク・ゾロアのイリュージョンと自分が育ててきたポケモンの力で
相手の闘い方さえ未来予測で見通す強大な敵を、激闘の末ねじ伏せた。
一方クルトは、コーダイネットワークに秘書として採用される事で潜入し
スパイ活動をしていたパートナーの女性記者「リオカ」と共に、
20年前と今回の事件の真相、そしてコーダイの正体を人々の前に暴き出した。
今までコーダイが悪用してきた、街中のモニターを使って…。
今までの地位もそれを生んだ時の波紋の力も失ったコーダイは、
バッカースタジアムを包囲した警察に力なく連行されるのであった。
サトシたちが死守した時の波紋を受け取ったセレビィは、
コーダイからゾロアを守って瀕死の重傷を負ったゾロアークに
「いやしのねがい〔癒しの願い)」をかけ完治を見届けると、
見事ときわたりを果たし、別の時代へと旅立っていった。
残ったのは、ゾロアークとゾロアが再会を心から喜び、
共に人間に化けて故郷に向かう船に乗って旅立っていく姿と、
そして悪の組織「ロケット団」の下っ端であるムサシ・コジロウ・ニャース…
今回の映画でさっぱり活躍しなかった小悪党3人組のゆるみきった顔だった。
こんな所でしょうか。ところどころ端折ってはいますが、
話の筋は理解できるよう説明したつもりです。
いかがでしょうか。「子供向けなら充分だろう」と思いますか?
もっと好印象に「感動的なストーリーじゃないか」と思うでしょうか。
私は否定します。最初に言いましたが、救われません。全員がみじめです。
何を以ってそうとするか?それは後々語りましょう。
コーダイが利用した、見せる側に都合が良いように改変された映像。
テレビから流れる「演出込み」の情報を鵜呑みにしてしまう、
あるいは一方的な批判を繰り広げるインターネットの喧騒を、
さも隠蔽された真実を知ってしまったかのように盲信してしまう…
そんな若年層の心に警鐘を鳴らす社会風刺の要素もあり、
感心した大人もいることと思いますが、そこは中学生以上だけが感じる事ですよね。
社会風刺は小学生相手にやる事じゃない。
では制作者がポケモン映画を通じて「小学生以下」に
伝えたかった事は何でしょうか?…それが見えてこない。
ゾロアークとゾロアの絆?確かに2体の間には別ち難い絆があった。
だが、悪い人間に利用され、善い人間に助けられてと、
結局は人間に振り回されてばかりの哀れなポケモン…みじめすぎませんか?
サトシのやった事はなんだったのか。
「クラウンシティの人々をひどい目にあわせやがって!」
と叫んでコーダイを叩きのめしたのか?
それとも「ポケモンを自分の欲の為に利用しやがって!」
と叫んでコーダイを叩きのめしたのか?
あるいはもっと単純に「悪人がえらそうにしやがって!」
と叫んでコーダイを叩きのめしたのか?
サトシは強い正義感から悪人コーダイを倒す事に使命感を覚え、
彼とのバトルに勝利した。敗北したコーダイは悪事を暴かれ連行された。
それだけだった。
今までの悪事への反省の描写など皆無。顔に喪失感こそあるが、
横暴を働いてきた過去を悔やむそぶりを見せるわけでもない。
「私は自分が成功することだけを考え、他者を踏みにじってきた。
だが最後には他者に倒されて全てを失った。私は間違っていたんだ」
もし安直にそう言ってしまったら、途端に説教染みてきたと子供に嫌われるかもしれない。
だけど、観ているただその時だけおもしろーい気がして、次の映画の頃には忘れる…
そんな、何も子供に教えてやれない映画にしてまで、嫌われない話を書くべきか?
自分が説教垂れる大人が嫌いだった、だから子供に説教なんてしないんだと言う人がいたら
その人の心の中は説教が嫌いだった子供の時のままって事ですよね。
子供の心に何かを残す事を放棄してると言えるのではありませんか。
何もかも失った所でコーダイの出番は終わります。
ですが現実の人生は、状況が絶望的になったら瞬間にパッと
ゲームオーバー画面が表示されて終わるわけじゃありません。
悪事・犯罪とまでは言わずとも、生きていく中で何かしら間違った行動で
周囲の人や他人に迷惑をかける事は必ずあります。それを失敗という。
最初から全く失敗しない事が大事な事なのではない。
失敗する。間違いもする。悪い事もするかも知れない。
でもその後、良くない事だったと実感し、理解する。
それを繰り返し学習する事でだんだん「良い悪い」がわかるようになり、
次にどう行動すれば「良い」かが自分で判断出来るようになる。
よく言う「反省を次に活かす事が大事」とはそういう事です。
だから、コーダイを倒して悪事を暴いても、まだ「ハッピー」でも「エンド」でもない。
彼の人生はここで終わるわけではないのだから。
自分自身で、己の間違いを実感して反省し、立ち直るまで終わってはいけない。
立ち直ると言えば一語で、しかしあいまいに済んでしまいますが、
それが意味するところは何か。
会社を復活させまた巨万の富を得る…そんな事ではもちろんありません。
悪事を働いて築き上げた富や名声を崩し、
クラウンシティの人々の暮らしや緑の為に費やし、
何度でもセレビィが訪れる街であるように守っていく中で、
彼の心にみんなの笑顔を喜ぶ気持ちも芽生えるとしたら
それはクラウンシティだけではなく
コーダイにとっても、新しい幸せの発見になるはず。
それが本当に立ち直るという事、彼にとっての救いだと思います。
無論コーダイが大きな悪事を働いた事は変わりありませんから、
それを放免すべしとは一切考えません。
あの世界に存在するかはわかりませんが、我々の世界の刑務所に当たる場所で
然るべき時間服役すべきですし、そうなるでしょう。
さらに実際の所、彼の財産を差し押さえ上記のように街の為に使う事は、
もしかしたらクラウンシティの行政がやってくれるかもしれない。
しかし放っておいてもなるようになるんだろう?と片付けては
誰の心にも救いはもたらされないのではないか。
緑を失って消沈していたクラウンシティの人々をはじめ、
ゾロアーク・ゾロアやセレビィといった被害者たちにも…
本性を隠し通してはいたが、悪行の限りを尽くす暴君であったコーダイ。
ふと街を訪れた旅人サトシに討たれた彼は絶対と思われたその座を追われる事になった。
サトシはコーダイの滅びゆく姿を見下ろし、次の街へ旅立っていく。
自らの正義を振りかざし地位ある者を討ちながら、その後を見守る事もせず、
暴君の悔い改めるを見届ける事もせず、それを願いもせず、急ぎ去る旅人。
一歩間違えれば、流れ者のクーデター犯…
“さまよえる凶刃”。
それが、私が今回の映画でのサトシを見て受けた印象です。
暴れるだけで報われない裏を返せばコーダイと同列の存在。
サトシは警察官じゃない。犯罪者を捕らえて突き出すのが仕事じゃない。
だったら。いや、だからこそ、悪人を打ちのめしたら
「アイツ、これからは良いヤツになってくれるかな…」と
ずっと心配を抱えるのが普通ではないのか?
気にかける。見守る。見届ける。それが責任だとは思わなかったのか?
コーダイは悪者だから倒すべき。そう思ったから、やった。
サトシは「あとの事なんか知らねーよ」と口に出す事はしません。
しかし、取った態度が彼の意思を表している。
だって本当に、あとの事は何もしないじゃないか。
典型的な利己主義の悪人、コーダイ。
だが、刑期を終えた彼を長い時間をかけて見守る事ができたら、
いつか人間らしい部分を見出せるかも知れない。
その期待は、少なくとも「ポケットモンスターの世界」では
根拠の無い綺麗事ではありません。
はじめはただ悪事を働くだけの存在だった連中が、
長い時間の中で、時に苦しかった過去を振り返り、
時にポケモンや出会った人々と笑いあい、涙を流し、
そして時に敵であるはずのサトシとも手を取り合う、
多くのファンを惹きつける人物へと変わっていった。
そう、ロケット団の3人、彼らが根拠です。
なあ、サトシ…お前、この10年以上もの間、
何をしてたんだ…何を学んだんだよ…
散々言われたろう…ポケモンバトルはただ相手を倒せばいいんじゃないって。
人間もポケモンも関係無く、自分の仲間も、対戦相手も思いやる、
そういう心を学んだんじゃないのか、目指すんじゃないのか。
お前がなりたいと思ってる「ポケモンマスター」は、
ポケモンバトルが上手いだけじゃ、なれないんだろ…?
だったらコーダイさえも思いやって見せろよ。
あの悪いヤツを、良いヤツに変えてみせろよ。
叩き直すってのは前よりいい状態する為に叩く所からやり直す事なんだよ…
そんな大それたこと子供じゃ到底無理だと思いますか?
でも、ポケモンマスターには心も伴わないといけないというのは
ずっとサトシ自身が思っている事のはず。
自分がとった行動の責任を持つ事が子供じゃ無理と言ってしまうのは、
ポケモンマスターになる事も子供じゃ無理と認めるようなもの。
「こんなもの観てうれしいのかね、子供は」
冒頭で書いたこの感想は、少し間違っていました。
「こんなもの観せてうれしいのかね、大人は」
→セレビィもらって帰ろうぜ